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町の歴史

 現在の春日町になったのは、平成2年4月1日。それでは、春日村ができたのはいつのことなのでしょうか。
 話はずっと昔の明治時代。「郡町村編成法」というものが施行されたのが明治11年12月。それまでの区がなくなり郡区 が生まれ、ここで愛知県第三区は春日井郡となりました。そして、明治13年2月5日に東西二郡に分かれ現在の西春日井郡ができ、郡役所が小田井村に置かれました。
 8年の時が過ぎ、明治22年10月1日に「町村制」が実施され、この時、本村は下之郷村・落合村の二村となりました。
 さらに時が過ぎ、明治39年7月11日県公示第200号によって、それまでの下之郷村・落合村が合併して春日村が誕生しました。


春日の年中行事
「 厄 」について
 男の厄は、二十五、四十二、六十一、七十七、八十八などで、この時には、各厄祝がされました。女は、十九厄、三十三厄といわれていますが、別に厄祝とか厄払いとかいうものはありません。
『 厄 祝 』
 二十五才の厄には、その地区の十五才から三十五才までの者に厄祝として、祝肴を出すのが普通のようでした。四十二才は、男の本厄といって、その時には本家が座敷の普請をして、盛んな祝をしました。親戚やつきあいのあるものに餅をひと飾りずつ配り、村中総振舞をした時もあったそうです。しかし、大正時代の頃から派手なことはなくなってきました。六十一才になると、嫁に行った娘の方からアカズキン、アカシャツ、アカモモヒキ、アカオの草履などを贈りこれを身につけて氏神参りをすることが習わしでした。七十七才は喜寿の祝で扇子を、八十八才には、マスとトカキを祝のしるしとして配ることがあります。また、厄ではありませんが銀婚、金婚の時にそれぞれ記念として、しるしを配ったり、氏神などに寄付する者があります。
「 婚 姻 」について
 昔、この地方での縁談は、近隣の村同士で整うことが多くありました。従って、嫁入りの荷は、大抵当日の午前中に運ぶことになっていました。この荷は、定紋付のコタン(布のおおい)をかけ、青竹の棒でつりました。釣り手は、青竹のイキヅエを持ちました。ツリモノは途中で相手方に受け渡しをしました。もらう方から酒肴を出して一杯やってから引き継ぎをしました。荷をつり込むと、青竹の棒や杖は、わざとそこで折って捨てました。二度と使わない縁起からでした。現在では、嫁入りの荷とわかるように紅白の引き廻しをかけてトラックに乗せて運ぶことが多くなりました。
 花嫁は、仏壇にお参りをしてから家を出ました。昔は人力車、今は自動車がほとんどです。婿の家の地区によっては、一定の場所で車を降りそれから歩いて婿の家へはいることになりました。婿の方の人々は紋付き羽織袴等、礼装で出迎えました。昔の嫁入りは、夕方暗くなってからが多かったので定紋入りの提灯を掲げ花嫁を取り巻いて『 ヨメイリヨーイ、ヨメイリヨーイ 』とはやし立てて送り込みました。この時、嫁ごの菓子といって菓子を投げて女子供に取らせました。今では、これもだんだん変わって袋詰めにして渡すところも出てきました。 その後、花嫁は、座敷のくちから上がりいったん別室に入り白に着替えました。そして、仏間でお参りをし線香をお供えしました。
 祝言の席では、花嫁と花婿が床の間を後ろにして正座し、両側にお仲人とつき女が座り、両側の上手の方に婿の親・親戚が、下手の方に嫁の親・親戚が並びました。三三九度の杯があってから、列座の一同が仲人からの紹介により固めの親類杯をしました。それがすむと花嫁は別室に引き取って衣裳がえをして、一般の披露にのぞみました。
 嫁入りの当日、その村の若い者が、臼や地蔵を持ち込む習慣がありました。翌日家では、若い者や親戚の客人を頼んで臼や地蔵を、各家や元の位置へ返しました。また、嫁入りの翌日には女客を呼んでボタモチをこしらえ振る舞っていました。これをヨメゴノボタモチといっていました。
 上記以外にも、いろいろな習慣がありましたが、行わなくなったことが多くあります。
「村のしきたり」について
 村々(現在の大字または小字)には、昔からいろいろなしきたりがあって、その村が統制され維持されてきました。
年行事・年番・釜番
 年行事または、年番は、古く徳川時代から現在まで続いています。各お宮の年中行事と各小字の年行事の当番となるもので、明治時代から大正まではその字の頭分からと一般からと両方から選ばれた人たちによって運用されていました。近年では、宮行事は氏子総代、字行事は年番と分けている字もあります。
 落合では、この外に総氏神[八劔社]の祭祀を受け持つ釜番というものがあり、七小字が毎年廻り持ちで当番にあたることになっています。
挨拶
 この地方では、道や田畑で会えば言葉をかける習慣がありました。
  (朝) 早いね お早う 早いなも
  (昼) 暑いね どうであもこの寒さは ええお天気で せいが出るなも
      ごせいがでます よう降るなも
  (晩) おしまやあす まあしまってちょう
 (別れる時)まあしまっとくれ おしまやあす
 多少言葉づかいがかわっていますが、毎日取り交わされる挨拶言葉でした。現在この挨拶を使っているのは高齢の人たちに限られていますが、この挨拶を聞くとほのぼのとした気分になります。
 上記のほかにも〔若い衆・元服〕〔頭分と中分〕〔下用または割り〕〔奉公人〕などのしきたりがありました。
「食事」について
 食物は、晴(ハレ)のものと日常のものに分けることができます。
 晴(ハレ)の日とは季節や農作業の節目にあたる日のことを言い、ふだんと異なったものを食べます。これには、モチ、ボタモチ、ダンゴ、オコワイ、アズキメシ、ウドン、スシなどがあります。ウドンなどは大正の初めまでは、粉をひくことからこねてこしらえるまで、すべて家のものが手がけたので、非常に手数がかかり、主婦は前の晩にまず粉をひき、朝は暗いうちから起きて半日がかりで仕上げて昼食に間に合わせたもので、たいそうなご馳走でありました。そして夜遅くまでひく粉ひき歌が石うすの音とともに聞こえたものです。
 日常の食事の中心となるのは、米と麦です。昔の農家では半白メシ(米麦を半々の割合)が上等の食事のほうでありました。常食としては、ヒバメシといって大根の葉をかげ干にしたものを水につけ、軟らかにしてこまかく刻んで米や麦とまぜて煮込んだものがあります。今日ではもう殆んど見られませんが、夕食にはゾウスイがおもでありました。米麦へときどきの野菜を切り込み味噌または溜りで煮たものです。
 今から思うと栄養など考えることなく、分量を増して満服感だけに満足していた食生活でした。現代においては、そのような食生活は、考えられないものですね。
「衣服」について
 当時衣服のことはキリモン又はキモノと呼ばれており、晴れ着・ふだん着・仕事着に分けられ、晴れ着はヨソイキ(子供のはエイベイ)といい、それより少し粗末なものをチョコチョコ着と呼んでいたそうです。
 明治・大正時代の仕事着は、男はテッポウジバンとモモヒキである。紺の木綿でできており、袖が細くて手の甲を覆うよう、杓子の形のものがついており、手首はヒモかコハゼでしめるようになっていた。モモヒキは、ズボンの服の割れた下の方がマンボ式に細くなって、足首は藁でゆわえたものである。その他デンチ・ドウギ・ハンテンなどがあり、女はこれに腕にはめるウデヌキ、足にはくハバキがあった。
 大戦中一時モンペが流行して、女は農用にはもちろん、外出にも一時モンペをはいたものであったが、戦後は、女の農事用として残っているにすぎない。今でもモンペ姿で農作業をしているおばあさんの姿を見かけます。しかし、やはりというか手伝いをしている娘さんやお嫁さんはそのような姿ではなく、モンペ姿を見かけることもなくなっていくかと思うと少し寂しい気もします。
「住居」について
 屋敷のまわりには、マキ、スギなどで、カキネがつくられている。農家では北よりのところに南向きに母屋があり、これをホンヤという。西側にハナレまたはハナレザシキ、東側か南にコウエという納屋があり、ベンジョはたいてい屋敷の南東にある。
 ホンヤ(母屋)は右勝手で、オトグチを入ったところがニワ、これは昔は大切な作業場で明治時代まではここで暗いカンテラの火の下で、縄ないなどの藁細工や、綿くりなどの夜なべ仕事が行われた。右手がマヤで、徳川時代には馬を飼ったところである。今はここが板張りか畳敷きになって家内仕事の場になっているのが多い。ニワの奥が勝手場すなわち炊事場である。ただ広かったこの勝手場が今日では改造されて、明るい文化生活の炊事場兼食堂となっている家がかなりあります。
 部屋は四間作りの田の字型が多い。ニワからアガリハナの部屋がダイドコ、その西がザシキ、ザシキの北が納戸または奥の間といい、ダイドコの北がオカッテである。
 春日に現在残っている最も古いお宅のホンヤの間取り図です。少しは改造されていますが、今から150年位前に建てられたもので、当時の面影を残しています。
暮れの過ごし方
 12月の末になると、すす払いや餅つきをして新年を迎える準備が始まります。
 昔は20日前後の日のよい日をえらんで、すす払いをしました。すす払いは青ザサを束ねたものを使い、これを正月に焼いたそうです。
 そして、1年のすす払いをした後は餅つきです。餅つきはクモチといって29日には餅をつかないようにしていたそうです。
 新年を迎える準備を整え、大晦日の夜。夕飯はいわしを焼いて、芋や人参、大根を入れたノッペ汁をこしらえ、夜中には年越しそばを食べ、女の人は、夜どおし夜なべをしたそうです。落合の仏音寺・下之郷の天桂寺・法瑞寺の除夜の鐘が鳴り出すと、それぞれに大勢が集まってきたそうです。今でも除夜の鐘を鳴らしに大勢の人が集まります。皆さんも除夜の鐘を鳴らして新年を迎えてみてはいかがですか。
お月見
昔はお月見を2回していました。1回目は8月15日の名月のとき。五条川の堤防から、ハギやススキをとってきて立てて、お団子やちまきを供えていました。2回目は9月13日の後の名月のとき。イモメイゲツといって、里芋を煮てお月様に供えたものを家中で食べていました。これは、里芋の一番おいしい時期ということからこのようなお月見だそうです。
 今は皆さんのご家庭ではどのようなお月見をされているのでしょうか?ススキなど少なくなってきているので昔のようなお月見は難しくなってきているかもしれないですね。それでも今は年に1回のことです。まんまるのお月様を見て、美味しいものを食べてゆっくりしてみてはいかがでしょうか。
 秋の夜空に、丸くて黄色いお月様がきれいに見えるといいですね。
七夕祭り
 子どものある家では、子どもにタナバタを書かせ、7日にはそれを青竹につけ、それに色々の折紙や紙網をつけてきれいに飾りつけて角に立て、西瓜・茄子・瓜などを供えて七夕祭りをし、明けて8日になると近所の子どもに一枝ずつ分けたそうです。
 戦後この七夕祭りが派手になりなかなかの物入りなので、めいめいの家ではやめ、小学校と保育園と合同して小学校の講堂でいっしょに七夕祭りを行ない劇や唱歌をやって一日を楽しく遊ぶことになりました。 現在では、保育園・小学校ともそれぞれで色々な催しで七夕祭りを行なっているようです。
4月の行事「五穀祭」
 この五穀祭は明治になってからできたもので、明治時代には近郷では、なかなかの規模の祭りであったそうです。この五穀祭は豊年を祈る祭りであったから、当日雨が降ると、その年は豊年であると近村のものが喜んだそうです。昔は、飾り馬も今よりたくさん出て、行列で五条川の堤防が黒山のような賑わいであったということです。
節分
 昔は、立春の前日の夕方、「イワシノカブ」というものを作ったそうです。イワシの頭をマメギにさしてクドで、
  なにーやくかやく、いわしのかぶやーくやく
と唱えて焼き、これにヒイラギを添えて、門などの両側にさしたそうです。
 節分といえば豆まきですが、夕方暗くなってから家の中の一間ごとに「福は内」と唱えながら豆をまいて歩き、最後に外へむかって「鬼は外」と一言だけ唱え、豆をまいて戸を閉め、その晩は外へは出ないようにしていたそうです。
正月
 元日の朝、昔は男の人が先に起きて井戸水を汲み、クドに火をたきつけ、その水で女の人が雑煮をこしらえたそうです。この時の雑煮はマメギとワラを使って煮たもので、これは、マメに1年が送れるように、ワラって暮らせるようにという縁起をかついだもので、中身は、黒砂糖を使ったおもちを食べた家が多かったということです。
 また、元日は、雨戸を閉めきり、ホウキは使わず、風呂もわかさず、丸1日仕事を全部休んでいたそうです。今でもその風習にならっている家はあるのでしょうか?